2012年8月17日金曜日

日本製・国産に対する更なる期待

食・製品の安全に対する関心から、近年特に日本国内生産への関心が高まってはいたのですが、そんな中で、韓国大統領による竹島上陸問題、中国人による尖閣諸島への不法入国問題が起き、また、発言などの問題から当方の顧客からも国産製品の購入を強く希望されるようになりました。
 これまでも、多少政治問題のお話しをする事はあったのですが、今回の隣国の暴挙には、相当腹を立てられている方も多く、池田屋も同感です。

故障の事もありますが、元々、池田屋ではできる限り(今となっては100パーセント国産とはいかない製品もあったりしますので...)日本製にこだわってご提案しておりますので、今後ともご期待に応えるべく、商品選定をしてご提案をさせていただきたいと思います。

オリンピックも関係しているのかもしれませんが、それにしても国際政治問題が、これ程の反応になる事はいままでありませんでした。

しかしそれは、もっともな事だと思います。臥薪嘗胆にも限界がありますから...。



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2012年8月15日水曜日

門真市から日本国首相が輩出されていたのをご存知ですか?

今回はちょっと仕事の話しから逸れてみます。

幣原首相の事については一度教わったのに、忘れているのかもしれないのですが、学校では習わなかったように思います。
 私の妻が門真市出身ということもあってか、幣原首相の事を知ったのかもしれません。はたまた、小林一三氏との関係か何か、知った経緯もよく覚えていませんが、兎に角、幣原氏の旧宅跡に碑があるということで、行ってみました。
 旧一番村は、現在の門真市一番町で、一番公民館のすぐ西側に幣原兄弟を讃えた碑があります。そこは幣原氏の旧宅跡で、今は取り壊されていて、一部が公園として整備されています。

公園の掲示に幣原氏について、門真市教育委員会により紹介がされていましたので、以下に紹介します。

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幣原兄弟の碑
兄、担博士は、明治26年、東京帝大国史科卒業後、東京帝大教授、台北帝大学長などを歴任し、終戦後枢密顧問官として活躍しました。
 終戦後、対馬が日本領に帰属したのは博士の研究によるものです。また、学費にこまる学生の援助に努めた学徒援護会も博士の偉大な功績の一つです。
 弟、喜重郎元首相は、明治28年、東京帝大法律学科を卒業し、翌年外交官及び領事館試験に合格し、以後各国の外交官を歴任、大正13年加藤高明内閣の外務大臣をはじめとして、5内閣の外務大臣を務め、世界各国に「幣原外交」として知られました。
 昭和20年10月9日、内閣総理大臣に任命され、占領下の難局にあたり、「人間天皇の宣言」草稿を起案、「日本国憲法改正草案要綱」を発表しました。

門真市教育委員会
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また、碑には、以下のように刻字されています。

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幣原坦・幣原喜重郎 両先生顕彰碑

幣原坦博士の学徳は万世の師表。同喜重郎首相の経綸は永遠の平和。
この偉大なる兄弟の生地を敬存して、切に次代の奮起を待つ。
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歴史の事なので、幣原氏について色々な評価はあるようですが、近年の近代史への関心の高まりから、その評価については定まっていないようです。
 しかし、過ぎた事は何とでも言えます。その時点で、どのような判断をしたか、何に基づいて判断したかが重要であって、個人だけの行動を評価しても全体を理解した事にはならないように思います。相手とその時点の環境を含めて、複数の視点で見なければ解明には至らないと思います。

さて、昔は割と偉人伝などをテレビや新聞、書籍などなどで取り上げていたと思うのですが、最近は昔ほど取り上げなくなっているばかりか、スキャンダルが取り上げられる事が多いようです。こういった郷土の偉人を知る事は、後に続く人々の手本にもなりますし、誇りにつながります。
 自己を捨てて、人々(地域)のために働いた英雄は積極的に顕彰し、地域教育にも取り上げていくべきではないかと思います。今日、私たちが豊かで、平和に暮らせるのは、地味で、もの言わぬ、そういった人々のおかげでもあるのですから…。

ちなみに、幣原喜重郎は、昭和26年(1951)年に亡くなられ、従一位の位階、勲等は勲一等を下され、爵位は男爵を受けています。



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