2012年6月13日水曜日

平田靭負という偉人

平田靭負(ひらた ゆきえ)という人をご存知ですか?

ちょっとホームページやインターネットの事とは離れた話題ですが、大変立派な人物ですので、ちょっとブログの趣向を変えてご紹介したいと思います。三重県桑名市を訪ねた折、平田靭負を知りました。
 ちなみに靭負とは「衛門府」の和訓です。また、同じ衛門府の督の唐名が金吾であったりしますが、江戸時代も下って来ると、本居宣長を代表するように日本独自の習慣を重んじるようになって行き、官位も和名を用いたりする事が多くなっていったようです。

海蔵寺の平田靭負他薩摩藩士墓所
平田氏は薩摩藩士で、長良・木曽・揖斐川の治水工事の責任者として赴任しました。ご存知の通り、木曽三川は今でこそ治水が行き届き、穏やかに流れていますが、かつては氾濫を繰り返して人々の生活を脅かす川でした。
これについて幕府が対策を行なう事となり、この普請を薩摩藩に命じました。

近畿の大和川もそうですが、こういった大規模公共工事は幕府が設計と監督を行ない、費用や人夫など諸要素は命じられた藩等が負担します。

美濃・伊勢・尾張国境の河川改修を1200キロメートルも離れた薩摩藩に命じました。薩摩藩は、幕命を受け947名の藩士を派遣して、懸命に役を果たそうとしました。
宝暦2年(1753)12月、幕府から薩摩藩へ下命があってから、同5年(1755)6月に島津藩主島津重年が幕府へ普請完成を届け出るまでの約3年間、平田靭負はその総責任者として、この工事に心血を注ぎました。

今もある油島千本松締切堤
しかし、この間、設計の変更や事故など、結果的に工事費も40万両に膨れ上がり、薩摩藩の財政にも大きな負担となってしまいました。40万両は1両10万円でザックリ計算すると、400億円です。
重機を使う現在でも大変な工事を江戸時代に行なうのですから、しかも、4カ所の工事ですから想像を絶します。

平田靭負の部下も難工事の失敗などで、責任を取って切腹などしてしまいます。そんな事で、この工事では、51名の切腹、33名の病死者、他に幕府方でも2名の切腹、人柱1名の犠牲を出します。
しかも外聞を憚った習慣から切腹も「病死」とされる事も一般的だったようです。

平田靭負は、薩摩藩主が幕府に工事完成を届ける直前の5月25日、故郷薩摩のある方角に向かって切腹し、総責任者として部下を追いかけました。

この様な偉人に対し、地元薩摩の人々はもちろん、工事当地の人々、幕府の要人、また、後世の人々にまで尊ばれ、現在に受け継がれています。

しかし、私は桑名を訪ねるまで、この事を全く知りませんでした。このような立派な人物は、桑名のみならず多くの人々の宝だと思います。
桑名を訪ねる事があれば、是非平田靭負が奉られている法性山海蔵寺など遺跡を訪ねてみてください。また、桑名市外にも海津市など色々とありますので、ご興味のある方は調べてみて下さい。小説等もあるようです。


海蔵寺公式サイト
平田靭負について(海津市サイト内より)

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